歴史の転換点から

「本能寺の変」の真相に迫る(4)細川護煕氏、光秀の大河「成功を祈る」

細川護熙さん=2007年9月、神奈川県湯河原町の不東庵
細川護熙さん=2007年9月、神奈川県湯河原町の不東庵

 「明智光秀論」の前に言っておきたいのですが、織田信長については政(まつりごと)をつかさどるリーダーとしての偉大な資質を多々兼ね備えた人物だったと考えています。

信長は卓越した教育者だった

 その一つは人を育てる力です。

 たとえば、信長が爪を切った後、爪を拾う役の小姓がいつまでもうろうろと何かを探している。「どうした」と尋ねたところ、その小姓は「お爪が一つどうしてもみつかりません」。それを聞いて信長は「その心がけだ、大事なのは。その心がけのない者はだめだ」とたいそうほめたといいますが、同じような話はたくさん伝えられています。

 教育者・信長に最も鍛えられたのは豊臣秀吉でしょう。たとえ殴られようが蹴られようが、秀吉は全身全霊で信長に仕え、それゆえに報われた。そう簡単に置き換えることはできませんが、2人の関係には現代人も学ぶところがあると思います。

 これは『太閤記』に記載されている話ですが、秀吉が安土城に歳暮を携えて参上したさい、信長への進物を乗せた2列の荷車が延々と続き、先頭が安土山の山頂近くにある城門に着いてもまだ後続は山の麓のあたりに列をなしていた。そのありさまを天主閣から眺めていた信長は「あの大気者ならば支那(中国)や天竺(インド)を退治せよ、と言われてもこばみはすまい」と話し、上機嫌だったといいます。