薩摩藩や長州藩などの尊皇攘夷運動の拠点となっていた「小倉屋」は、文久3(1863)年に入ると尊攘派の公卿(くぎょう)(朝廷の高官)らも出入りするようになり、当主の白石正一郎(しらいし・しょういちろう)も本格的な尊攘運動家となっていく。
4月2日、祐宮(さちのみや)(のちの明治天皇)の侍従で尊攘派の公卿、中山忠光が訪ねてきたことが契機だった。
薩摩藩や長州藩などの尊皇攘夷運動の拠点となっていた「小倉屋」は、文久3(1863)年に入ると尊攘派の公卿(くぎょう)(朝廷の高官)らも出入りするようになり、当主の白石正一郎(しらいし・しょういちろう)も本格的な尊攘運動家となっていく。
4月2日、祐宮(さちのみや)(のちの明治天皇)の侍従で尊攘派の公卿、中山忠光が訪ねてきたことが契機だった。