歴史の転換点から

蝮(まむし)の涙(2)覆る通説、蘇る希代の梟雄の実相

斎藤道三・義龍父子ゆかりの岐阜城天守閣から長良川をのぞむ(関厚夫撮影)
斎藤道三・義龍父子ゆかりの岐阜城天守閣から長良川をのぞむ(関厚夫撮影)

 前回は下克上の世を象徴する美濃(岐阜県)の戦国大名、斎藤道三の最期について詳述した。今回は彼の出自や長男、義龍にまつわる通説が近年、大きく修正されていることをテーマとして進めてゆきたい。(編集委員 関厚夫)

「2人の道三」の衝撃

 「彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覺寺法花坊主落にて、西村与申」

 昭和48(1973)年発刊の『岐阜県史 史料編 古代・中世四』にこの一文を含む南近江の戦国大名、六角承禎(ろっかく・じょうてい)作成の条書(守護や大名が下位者にあてた公的文書)の影写本が収載されて以降、斎藤道三の伝記は大きな変更を迫られることになった。

 「かの斎藤治部大輔(義龍の官名)の出自についていえば、祖父の新左衛門尉(しんざえもんのじょう)は京都・妙覚寺にいた元法華宗(日蓮宗)僧侶で、西村という名前だった」

 前述の一文の拙訳だが、さらにこう続けられている。「新左衛門尉は美濃国の重臣、長井家に出入りしていた。美濃で大規模な国内紛争が起きたさい、奔走しているうちに頭角を現し、長井と同じ姓をいただくようになった」