歴史の転換点から

蝮(まむし)の涙(3)信長とわが子への奇妙な愛憎

織田信長への「国譲り状」の異名がある斎藤道三遺言状。惨死を期す道三が到達した死生観がつづられている=弘治2(1556)年4月19日(旧暦)付(大阪城天守閣蔵、複製禁止)
織田信長への「国譲り状」の異名がある斎藤道三遺言状。惨死を期す道三が到達した死生観がつづられている=弘治2(1556)年4月19日(旧暦)付(大阪城天守閣蔵、複製禁止)

 斎藤道三をめぐる史料には、一筋縄ではいかないものが多々ある。敗死の前日にあたる弘治2(1556)年4月19日にしたためたとされる遺言状-別名「(織田信長への)国譲り状」はその代表例であろう。

 「態申送(候)意趣者(なぜこの書状を送るかといえば、以下のことを申し伝えたいからである)」との一文から始まるこの遺言状は、京都・妙覚寺に入ることになっていた幼い息子にあてている。妙覚寺は道三の父、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)がその前半生において修行に勤しんだ日蓮宗の名刹(めいさつ)である。

 遺言状は現在、その妙覚寺と大阪城天守閣に所蔵されているほか、「全文」が戦国期の近江と美濃の盛衰を伝える『江濃記』に引用されている。ところが、これら3つは文面がそれぞれ大同小異であるところに加え、「後世の人の創作の可能性が大きい」(勝俣鎮夫氏「美濃斎藤氏の盛衰」)や「二つの遺言状ともに筆致(文章の書き方と筆跡)が多分に江戸時代風である」(横山住雄氏『斎藤道三』)との指摘もある。

 悩ましいところだが、内容的に史実と符合し、史実をつなぐところが多く、死を覚悟した道三の内面を知ることができる貴重な史料でもある。たとえ後世の手が入った形跡があったとしても、それは真筆を模写したさいに生じたと考え、話を進めたい。

 その前半は娘婿の信長への「国譲り」である。「織田上総介(信長の官名)にはすでに『美濃を思いのままにせよ』との譲り状を渡してある。このため、織田軍はまもなく尾張から美濃へと北進する」とある。

道三の不器用な愛情

 「妙覚寺所蔵遺言状」と『江濃記』にあるこの記述の通り、信長は道三に呼応して美濃南部に陣取った。だがまもなく、「道三は敵の長男、義龍軍に討ち取られた」との報が届く。勢いづく義龍軍を前に苦戦を強いられていたところに、義龍と結んだ尾張の敵対勢力が信長の居城に迫っているとの急報がもたらされた。ために「無念の退却」をせざるを得なかった、と『信長公記』は伝えている。