歴史の転換点から

蝮(まむし)の涙(5)道三と恐るべき子供たち 木下聡・東洋大文学部准教授に聞く

斎藤道三・義龍父子が雌雄を決した合戦に名を供した長良川の河畔。かつて稲葉山城を擁した金華山(稲葉山)に陽が沈もうとしている(関厚夫撮影)
斎藤道三・義龍父子が雌雄を決した合戦に名を供した長良川の河畔。かつて稲葉山城を擁した金華山(稲葉山)に陽が沈もうとしている(関厚夫撮影)

 戦国時代が生んだ梟雄・斎藤道三。後の「天下人」である織田信長をも巻き込んだ、謎の多い「父子・舅婿関係」が、気鋭の中世史研究者で近刊『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房)の著者でもある木下聡・東洋大学文学部准教授へのインタビュー後半のテーマである。(編集委員 関厚夫)

創られた「落胤説」

 --道三は家督を譲った長男、義龍に反旗を翻され、合戦の結果、命を奪われます。この義龍の実の父は、道三が美濃から追放した旧主で美濃守護だった土岐頼芸(よりなり)である-という説が昔からあるようですが。

 「その『落胤説』は江戸時代半ば以降の創作だと考えています。太田牛一著『信長公記』をはじめ、早い時代に成立した確実な書物や文書類にはまったく記載がないからです。義龍は道三の実子であり、母は家臣の稲葉一鉄の妹だった-という説が道理にかなっていると思います。

 また、義龍の母で頼芸の愛妾だったとされる三(深)芳野(みよしの)については、架空の人物だとみなすべきでしょう。『落胤説』創出の過程で、道三が頼芸から三芳野を下賜されたか半ば腕ずくで奪ったかの後、まもなく義龍を出産した-という軍記物や小説でよくみられる筋書きをもっともらしくみせるために創出されたと考えています」

 --それでは、道三に敵対した義龍が「范可(はんか)」というなぞの多い名乗り(実名)を使用したことについてですが…。

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