歴史の転換点から

異説・桶狭間の合戦(上)今川義元の無念と織田信長をめぐるなぞ

やりを手に立つ織田信長像と弓を取る今川義元の座像=名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園(関厚夫撮影)
やりを手に立つ織田信長像と弓を取る今川義元の座像=名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園(関厚夫撮影)

 いまをさること460年前の5月19日(旧暦)。当時、欧州で採用されていた太陽暦のユリウス暦では6月12日、22年後の「本能寺の変」の年に施行され、現在も世界各国で採用されているグレゴリオ暦では同じ月の22日となる。いずれにせよ、ちょうどいまごろの時期、「小」の織田信長が「大」の今川義元を敗死させるという「桶狭間の戦い」が起きた。この史上のジャイアントキリングについては近年、さまざまな史家による通説の見直しが進められている。筆者の「異説」を交えつつ、それらを概観し、この戦国時代の一大画期を再構築してみたい。(編集委員 関厚夫)

執念で敵の指を食い切る-無双の勇者・義元絶命の瞬間

 「尾張国鳴海の桶狭間にて(義元が)昼弁当をめし上がっていたところ、上の山方向から(信長方の)服部小平太が突きかかったけれども、(義元の太刀によって)膝頭を割られてしまった。そのとき、毛利新助(介)が切り込み、(義元の)御首を取ったのだが、何としたことかそのさい、(義元の)口の中に(毛利の)人さし指が入り、食い切られてしまった」

 徳川家康のいとこにあたり、戦国期から江戸前期にかけて「鬼日向(おにひゅうが)」の異名で知られた水野勝成(1564~1651、福山藩初代藩主)は『水野日向守覚書』にそう書き残している。