歴史の転換点から

(8)『大日本』『世界政治の中の日本』-英国発もう一つの「坂の上の雲」が描く国民の歴史

関門海峡の朝焼け。この景勝地を見下ろす春帆楼で日清講和条約は締結された=山口県下関市(関厚夫撮影)
関門海峡の朝焼け。この景勝地を見下ろす春帆楼で日清講和条約は締結された=山口県下関市(関厚夫撮影)

 「日清戦争のおおよその原因は容易に理解することができる。(李氏)朝鮮への中国(清)の対応-一つにはこの小王国への気まぐれな干渉、また宗主国としての権利を行使する一方で、その責務についてはいっさい拒絶するといったこと-などが、日本にとってもはや許容不可能な状況を生みだしたのだ。というのも日本は、朝鮮を公法上の独立国とみなし、条約を締結していたからだ」

 わが国の「近代科学技術教育の父」と称される英国人、ヘンリー・ダイアーの主著『大日本』の第4章「(近代への)移行」の一節だ。といっても言葉の主はダイアーではない。幕末に英軍将校として来日、以降、ジャーナリスト・文筆家として近代日本を世界に発信し続けたフランシス・ブリンクリーの著述からの引用である。ダイアーの代弁者であるブリンクリーは以下のように結んでいる。

 「日清両国が戦闘におよんだいくつもの原因についてさかのぼってゆくとある根源に至る。それは西洋文明に対する両国の相反する姿勢である。日本は西洋文明を熱心に受け入れており、中国のようにそれをさげすむわけにはゆかなかった。また、西洋諸国レベルへの高みへと登り始めたがゆえに、東洋諸国のランクから抜け出さなければならなかったのだ」

日清戦争の勝利と三国干渉の衝撃

 日清戦争は大方の予想に反し、日本が大勝をおさめ、開戦から約8カ月半後の明治28(1895)年4月17日、山口県下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)で協議していた日本側全権の首相・伊藤博文と外相・陸奥宗光、清側全権・李鴻章(り・こうしょう)らが日清講和条約(下関条約)を調印するに至った。その6日後に表面化したのが欧州列強のロシア・ドイツ・フランスによる「三国干渉」だった。