歴史の転換点から

(12)『大日本』『世界政治の中の日本』-英国発もう一つの「坂の上の雲」が描く国民の歴史

わが国の「近代科学技術教育の父」、ヘンリー・ダイアーと妻のマリー(『旧工部大学校史料・同附録』から)
わが国の「近代科学技術教育の父」、ヘンリー・ダイアーと妻のマリー(『旧工部大学校史料・同附録』から)

 「君が琵琶湖疎水の大事業を完成させたのもたしか30歳になる前のことではないか。私が満29歳のときに都検(教頭)として工部大学校を創立し、成功させたとしても何も驚くことはない。それにしてもこの身長190センチの大兵を、当時の日本人は定めし老人と思ったのだろうね」

 そう言ってわが国の「近代科学技術教育の父」と称される英国人、ヘンリー・ダイアーは笑ってみせたという。目の前にいた「君」とは、戦前を代表する土木工学者、田辺朔郎。明治33(1900)年8月、田辺が英スコットランド・グラスゴー郊外にあるダイアーの自宅を訪れたときのひとこまである。田辺はダイアーが工部大学校都検を務めていたころのまな弟子だった。

 当時、ダイアーは52歳で田辺は39歳。ダイアーが指摘したように、田辺は主任技術者として琵琶湖疎水の設計・施行を担当し、10年前の明治23年、満29歳の年に一期工事を完成させている。この一大プロジェクトは外国人技術者が疑問視するなか、日本人のみで技術・資金面を克服して完成し、世界にわが国の土木水準の高さを示すとともに、わが国初であり、同時に当時世界最大級の一般用営業水力発電施設やインクライン(勾配鉄道)なども建設していたことから、「地域総合開発事業の模範」とされる。

若きトップと飛翔(ひしょう)するまな弟子たち

 「工学開明」と「百工褒勧(勧奨)」の一環。ひらたくいえば、「日本の工業を日本人の手で発展させるためには、それを担う人材を養成することが不可欠であり、急務である」-。

 後の初代内閣総理大臣、伊藤博文らのそんな思いを実現するために明治10年、設立された工部大学校は「工部省が設置した御雇外国人教師による高等な工業技術教育機関」(『国史大辞典』)であり、「当時世界でも進歩的な工学教育機関であった」(『日本大百科全書』)とされる。