日本陸軍少尉として名古屋で1945年8月の戦後を迎えた李登輝は、翌46年1月、神奈川県横須賀市の浦賀を出港した米山丸に乗船し、台湾に向かった。
これは、大東亜戦争末期に神奈川県の「高座(こうざ)海軍工廠(こうしょう)」など戦闘機の工場で働いた10代の台湾出身者「台湾少年工」の自治会組織が交渉の末、台湾に戻るために運航させた船だった。
台湾で選抜され、海を渡ってきた少年工は約8400人。戒厳令が解除された翌年、88年に台湾で作られた同窓会組織の「台湾高座会」総会長、李雪峰(り・せっぽう)(1926年生まれ)は「終戦直後は失意と緊張の連続だった」と話す。10代前半の少年も多く、18歳で少年工として内地に来た李雪峰はリーダー格だった。