李登輝秘録

第5部 大東亜戦争と台湾(6)「二つの祖国生きた者」が同じ船に

大東亜戦争末期に神奈川県の「高座海軍工廠」で働いた台湾出身の少年工らが終戦後に宿舎の前で撮影した集合写真(石川公弘提供)
大東亜戦争末期に神奈川県の「高座海軍工廠」で働いた台湾出身の少年工らが終戦後に宿舎の前で撮影した集合写真(石川公弘提供)

 日本陸軍少尉として名古屋で1945年8月の戦後を迎えた李登輝は、翌46年1月、神奈川県横須賀市の浦賀を出港した米山丸に乗船し、台湾に向かった。

 これは、大東亜戦争末期に神奈川県の「高座(こうざ)海軍工廠(こうしょう)」など戦闘機の工場で働いた10代の台湾出身者「台湾少年工」の自治会組織が交渉の末、台湾に戻るために運航させた船だった。

 台湾で選抜され、海を渡ってきた少年工は約8400人。戒厳令が解除された翌年、88年に台湾で作られた同窓会組織の「台湾高座会」総会長、李雪峰(り・せっぽう)(1926年生まれ)は「終戦直後は失意と緊張の連続だった」と話す。10代前半の少年も多く、18歳で少年工として内地に来た李雪峰はリーダー格だった。

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