香港に生きる

1/1030000 武闘派女性の告白

「私にはまだやるべきことが残っているから」。昨年11月、顔の撮影を拒んだフェートさんが差し出した右手。デモの際、警察から逃げようとして転倒し負傷したという。まだこの時は逮捕されていなかった(藤本欣也撮影)
「私にはまだやるべきことが残っているから」。昨年11月、顔の撮影を拒んだフェートさんが差し出した右手。デモの際、警察から逃げようとして転倒し負傷したという。まだこの時は逮捕されていなかった(藤本欣也撮影)

 香港で103万人(主催者発表)が参加した昨年6月9日の反政府デモから1年。最近、大規模デモが起きていないのは新型コロナウイルスの影響ばかりではない。香港市民の基本的人権を制限する「香港国家安全維持法」が月内にも成立するのを前に、その抑止効果が早くも表れているからだ。

 昨年11月、デモを取材するうちに、最前線で警官隊と激しく衝突する勇武(武闘)派の女性を知った。フェートさん(28)。英語で「運命、宿命」を意味する名は、自分で付けたニックネームで、勇武派のイメージとは異なる、えくぼのかわいい小柄な女性だった。が、話し始めると、笑みはさっと消えた。

 「私たちがやっているのはデモではない。中国から自由を守るための戦い、戦争なのです」

 その後も時々会った。彼女が暴力にも、爆弾の製造にも、かかわっていることを知った。フェートさんの表情は暗く沈んでいった。

 今年に入り、「二度と戻らない覚悟です」と香港を離れることを明かした。初めて涙を見せた。警察に逮捕、保釈された後、暴動罪で起訴されていた。最高刑は禁錮10年に及ぶ。

 某国に逃れた彼女は4月下旬、会員制交流サイト(SNS)を通じて発信を始めた。この1年間の揺れる思いをつづっていた。その身は海を渡っても、心は香港を離れられないでいる。異国の地に逃れてなお、香港に生きる女性の物語だと思った。身の安全のため実名を明かせないが、彼女から要約を掲載する許可を得た。

 1人の香港市民がどのように変わっていったのか。あの日、デモに参加した103万分の1のケースとして紹介したい。そして、残りの数えきれない人々もそれぞれの境遇で今、自由に意見が言えなくなる香港国家安全維持法を迎えようとしている。(香港 藤本欣也)

「手にしたレンガ、投げるべきか…」

 2019年6月に本格化した香港の反政府デモで、勇武(武闘)派として最前線に立ったフェートさん=仮名=(28)。彼女の手記は、今年に入り海外へ逃亡した後、自身に起きたある“変化”から始まる。

×   ×

 香港を離れて、私はデモの前線に立つことがなくなり、尾行や密告、(警察に殺害されて)「自殺」したことにされる心配もなくなりました。ゆっくり休めるはずなのですが、なぜか眠ることができません。

 毎晩、銃を突きつけられたり、自分が殺害されそうになったりする夢を見るのです。30分から1時間ぐらい眠って、また起きて…。

 医師によると、私は長期間、いつ死んでもおかしくない環境にいたため、脳がずっと緊張状態にありました。しかし今は安全な場所にいるので、気が緩み、これまでたまっていた痛みが一気に解放されたというのです。それはPTSD(心的外傷後ストレス障害)で、「軽い程度ではありませんよ」と言われました。

 5月に入り、私は自殺を図りました。首をつり、酸欠で頭の中が真っ白になったとき、死の恐怖のあまり、体がもがき、心が生きることを求めました。生き延びた後、死ぬ勇気さえないことを責めたのです。

もし、警官に当たって死んでしまったら、それを受け入れられるのか

催涙弾を頭に受けたことがある 死というものを初めて間近に感じた

 《香港では19年6月9日、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする逃亡犯条例改正案への反対デモに103万人(主催者発表)が参加。その群衆の中にフェートさんもいた。彼女が初めて前線に出たのは、その3日後だった》

 昨年の6月12日、私はただの和理非(平和、理性、非暴力)派でした。催涙弾や速竜小隊(警察の特殊機動隊)なんて知りませんでした。

 (香港の民主化運動)雨傘運動の年(14年)、私はある病気で半身不随になりました。何年かの治療を受けて、ようやく普通の暮らしが送れるようになったのです。だから、走り続けたり、重いものを持ったりはできません。

 この日、(立法会=議会=を取り囲む)デモに参加し、友人と陸橋の下で休んでいると、前線に物資が足りないという声が聞こえてきました。

 「タオルと(目に入った催涙剤を洗浄する)食塩水が足りないらしい。(催涙弾などから身を守る)長い傘も必要だな」

 目の前に、山のように積まれた物資が前線に届いていなかったのです。

 手伝いたい。ほんの少しでも、と思いました。友人を残し、ヘルメットと(催涙ガスから目を守る)ゴーグルを身に着けました。右手に食塩水のボトル、左手に何本もの傘を持って、前線に向かいました。走っては休んで、走っては休んで…。1回往復するのに10分近くかかりました。

 2往復、3往復するうちに、前線で動けなくなってしまいました。その場にいた仲間が「早く逃げろ。傘を持って後ろへ下がれ。もうすぐ戦いが始まるから」と言うのです。他の仲間が小道から走り出してきて、「速竜が来たぞ!」。

 「みんなが逃げるまでここを守る。戦わない人は早く逃げて」と前線の男性が叫びました。人を救うために、後方の仲間たちを守るために戦う、これが前線の仕事なんだと知りました。

 私は友人のところまで戻りました。全身疲れ切っていましたが、その夜、眠れませんでした。前線では私よりもっと若い同志たちが戦っていたのです。

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