
日本統治時代の台湾で、上下水道整備の取り組みは早かった。ペスト、コレラなどの疫病が蔓延(まんえん)し、衛生問題改善の根本的な手段として喫緊の課題だったからである。当時の住民の衛生意識は低く「防疫」という観念自体がない。上水は河川水や井戸水を使い、汚水はそのまま川へ流していたから、疫病の発生・蔓延の原因となってしまう。
内務省衛生局長、後藤新平(後に台湾総督府民政長官)は統治開始翌年の明治29(1896)年に、英スコットランド出身の“お雇い外国人”で帝国大学工科大学で教鞭(きょうべん)をとったバルトンと弟子の浜野弥四郎(やしろう)を台湾へ派遣。2人は基隆、台北、台中などの各都市で現地調査を進め、30年代半ば以降から上下水道が急ピッチで整備されてゆく。