パンデミックでよみがえる亡霊 なぜ、また共産主義が語られるのか 岩田温

1989年11月9日、東西ドイツの国境開放後にベルリン・ブランデンブルク門前の「ベルリンの壁」の上に立つ人々。壁の崩壊は共産主義の終わりを印象づけた(DPA提供・AP=共同)
1989年11月9日、東西ドイツの国境開放後にベルリン・ブランデンブルク門前の「ベルリンの壁」の上に立つ人々。壁の崩壊は共産主義の終わりを印象づけた(DPA提供・AP=共同)

 ポスト・コロナについて語る有識者なる人々が多い。確かに新型コロナウイルス感染のパンデミック(世界的大流行)という現象が従来の世界を変容させる可能性はあり得る。医療崩壊の危機、世界的経済の危機といった問題について考えれば、かつての世界のあり方が一変する可能性を秘めていると思いたくなる気持ちもわからないではない。この点を全面的に否定するつもりはない。しかし、ポスト・コロナを嬉々(きき)として語る人々の話し方にどこか違和感を覚えざるを得ない自分がいるのも事実である。

政治学者の岩田温氏
政治学者の岩田温氏

 この違和感は一体何なのだろうと立ちどまって考えてみる。この違和感の源には、既に現実によって否定された「理念」を再び持ち出してくることへの強い懐疑の念がある。

 ポスト・コロナの世界像に関して、少なからざる人々が共産主義、社会主義といった終焉(しゅうえん)したはずの世界像の復活を唱えている。かつて知識人やマスコミ人の頭の中で、人々の理想郷とされた共産主義社会は、現実には絶望郷(ディストピア)でしかなかった。それは、ソ連崩壊や北朝鮮の惨状によって証明されたはずだが、彼らは今、その全く現実性が欠如した将来像を、過去の亡霊に取り憑かれたかのように語っているのだ。

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