芥川賞作家・磯崎憲一郎のヒューリック杯棋聖戦第2局観戦記 藤井七段、邪念のなさゆえの5四金!

ヒューリック杯棋聖戦第2局で、藤井聡太七段を見つめる作家の磯崎憲一郎さん=6月28日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館(川口良介撮影)
ヒューリック杯棋聖戦第2局で、藤井聡太七段を見つめる作家の磯崎憲一郎さん=6月28日午後、東京・千駄ケ谷の将棋会館(川口良介撮影)

 たとえそれが原稿用紙換算で四百枚を超える長篇であろうと、見開き二ページにも満たない掌篇であろうと、私は小説を事前の設計図なしに書き始める。あるのは最初の一文だけで、続けてどんな文章を繋いでいけば面白くなるか、場当たり的に考えるという執筆法をデビュー以来続けているのだが、もちろん私のような書き手は異端だ。プロの作家の多くは綿密な構想を組み立て、取材を重ね資料を集めて準備を整えてから、ようやく原稿に取り掛かる。しかしそんな用意周到な作家であっても、書き進む内に当初の計画とは異なる、まるで獣道(けものみち)のような新奇で怪しげな行く先が見えてきたときには、そちらへ進みたくなる衝動を覚えるものだ、とも聞く。執筆の過程でそうした岐路のような場所に立たされたとき、危険を承知で敢えて冒険の一歩を踏み出せるかどうかによって、作家は恐らく試されている。

 棋聖戦第二局は、私のような将棋の素人からすると物足りなく感じられるほどの、藤井聡太七段の快勝に終わったように見えた。しかしこの対局にも間違いなく、岐路となった局面があった、それは四十二手目、後手藤井七段の指した5四金という一手だった。これは守りの要である金を繰り上げて攻めに使おうという、「金は斜めに誘え」という将棋のセオリーにも反する一手なのだそうだが、現実にはここから以降、挑戦者有利の形勢に徐々に傾いていった。局後の感想戦でも渡辺明棋聖が「大胆な攻め方」と評した通り、普通の棋士ならば思い付かない、リスクの高い手でもあるので、よほどの自信があって指したのではないかとの声も聞かれたが、しかし私の目には、背中を丸め頭を深く垂れたままけっして盤上から視線を逸らさない、濃紺の着物に黒の羽織を纏った藤井七段の姿は、自信に満ちたというよりはむしろ、将棋という完成された形式への純粋な信奉に貫かれているように映った。最善手を選び続けていれば、その行く先では勝利が待っていてくれる--将棋の、ある意味単純明快ともいえる原理を信じる強い気持ち、若さゆえの邪念のなさを支えとしているからこそ、岐路に立った藤井七段は恐れの気持ちに負けることなく、冒険の一手である5四金を打てたのではないだろうか?

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