異説 明智光秀の実像

(2)光秀、福知山では「神」 隣の丹波篠山では「にっくき敵」

福知山城。天守閣は一度、明治時代に解体されたが昭和になって再建された=京都府福知山市
福知山城。天守閣は一度、明治時代に解体されたが昭和になって再建された=京都府福知山市

 織田信長に仕えた明智光秀は信長の命で丹波攻めを行い、苦労の末に平定した丹波国支配を任された。天正7(1579)年ごろ、現在の京都府福知山市に城を築いた光秀は善政を敷き、「名君」として領民の敬愛を受けたという。ところが、福知山から山を隔てた兵庫県丹波篠山市では丹波攻めの際の被害者意識が今でも根強く残り、光秀を「にっくき敵」ととらえる市民が多い。ここでも、本能寺の変の動機に結びつく、因縁の逸話が残っていた。   (古野英明)

大減税と治水工事

 「福知山では文字通り、光秀公は『神様』なんです」。光秀の功績を顕彰する「福知山光秀ミュージアム」の主任学芸員、芦田岩男さんはこう話す。

 実際、光秀を祭神として祭る神社が福知山市内にある。宝永2(1705)年に創建された御霊(ごりょう)神社。境内にはいつ建てられたかは分からないが、「免税と決めて光秀名を残し」と光秀の功績をたたえる石碑がある。400年以上、地元の人たちは光秀から受けた恩を忘れず、神社を守り続けてきたという。

 どんな善政を施したのか。石碑にあるように、光秀は戦乱で疲弊していた領民のために大減税を行った。神社に残る「明智日向守光秀祠堂記」には「免税賦、俗曰地子」と、領主が田畑や屋敷地に課していた税「地子銭(じしせん)」を光秀が免除したことが記されている。

 「現代の固定資産税にあたる税を免除したことで経済は活気づき、福知山は西国への要衝として発展を遂げました」と芦田さん。

 画期的な治水工事も行った。由良川と土師川が合流するところにある福知山城下はたびたび氾濫に見舞われてきたが、光秀は川の合流地点付近に堤防を築き、まちを洪水から守ったと伝わる。この堤は今でも残っており、「明智藪(やぶ)」の名で広く知られている。

 その後も川の氾濫は起こっているが、堤防のおかげで水害は緩和され、領民は後世まで感謝したという。

 「市民の中にはご先祖さまを滅ぼした光秀公を恨んでいる人も一部いますが、おおむねは地元の英雄として敬愛しています。そもそも『福知山』の命名も光秀公ですし、切っても切れない関係なんです」

光秀より地元の英雄

 同じ丹波でも、「被害者」である丹波、丹波篠山両市民の間では今でも「アンチ光秀」感情が根強い。