異説 明智光秀の実像

(3)消された光秀の功績 有岡城攻めの真実

太平記英勇伝に描かれている荒木村重(伊丹市立博物館所蔵)
太平記英勇伝に描かれている荒木村重(伊丹市立博物館所蔵)

 天正6(1578)年、織田信長から摂津国を任されていた荒木村重が謀反を起こした。翌年、村重の拠点・有岡城(兵庫県伊丹市)は落城するが、その功労者として後世に伝えられたのは信長の家臣・滝川一益のみだった。だが、天理大准教授、天野忠幸さん(日本中世史)は明智光秀こそ功労者と指摘する。「信長を裏切った逆臣ゆえにその名は意図的に消された」。光秀の知られざる功績を紹介し、有岡城攻めに潜んでいた「本能寺の変」予兆についても触れたい。  (古野英明)

本能寺の変の予兆?

 村重はもとは摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の池田を治めた池田氏の家臣。信長に認められて伊丹に有岡城を築き、中国地方の毛利氏を攻略する上で重要な地域である摂津国全体を任された。

 やがて村重は毛利攻めの前段階として播磨(兵庫県南部)攻略を命ぜられ、播磨の国人衆を調略して味方につけたのだが、ここで殺生な仕打ちに遭う。信長は同5(1577)年、毛利攻めの司令官に羽柴(豊臣)秀吉を任命したのだ。

 翌年、播磨にも勢力を持っていた三木の別所長治が毛利と本願寺と結んで信長に反旗を翻し、同年10月、村重も乗ることを決意して有岡城に籠る。これが村重謀叛の経緯である。

 「信長には独善的で気まぐれなところがあり、家臣の心がわからない。村重の謀叛は本能寺の変の予兆ともいえます」。天野さんは、後に起こる本能寺の変の原因も信長の性格によるところが大きかったとする説を唱える。

 「村重背く」の報に驚愕(きょうがく)した信長は、娘を村重の嫡男・村次に嫁がせていた光秀ら家臣を有岡城に遣わし説得を試みたが、村重は応じなかった。

カギは光秀の娘

 信長の旧臣・太田牛一が記した「信長公記(しんちょうこうき)」は、有岡城の戦いを終結に導いたのは滝川一益だったとしている。同7(1579)年9月、村重が有岡城を出て村次のいる尼崎城に移ると、一益は調略を開始。有岡城内に寝返る者が現れ、ついに陥落したという。

 「調略したのは光秀。少なくとも一益と同等かそれ以上の貢献があった」

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