異説 明智光秀の実像

(5)くすぶる光秀生存説 なぜ岸和田の寺に光秀唯一の肖像が?

大阪府岸和田市にある本徳寺が所蔵する明智光秀肖像
大阪府岸和田市にある本徳寺が所蔵する明智光秀肖像

 大阪府岸和田市にある臨済宗妙心寺派の寺・本徳寺に、明智光秀を描いたとされる肖像画が残されている。現在、世に出回っている光秀の唯一の肖像だ。平定した丹波や居城のあった近江ではなく、なぜ泉州地域にあるこの寺に光秀の肖像が残っているのか、謎は多い。また、肖像の余白に書かれた画賛には、「あと少しで百歳だったのに」と、光秀が天正10(1582)年の本能寺の変、山崎の戦い後も生き延びた-とも読める一文がある。肖像に秘められた謎を紹介する。

(古野英明)

戒名に「光秀」の名

 同寺は、桃山期に光秀の子・光慶(みつよし)とされる南国梵桂(なんごくぼんけい)が現在の大阪府貝塚市に開いた海雲寺が前身で、寛文2(1662)年、岸和田に移転されたと伝わる。

 光慶に関しては、山崎の戦い後に病死、あるいは自死したとする説がある一方、生き延びて京都・妙心寺を頼り、僧侶になったという説もある。光慶が生存していたとすれば、父・光秀の菩提(ぼだい)を弔っても不思議はない。

 ちなみに、妙心寺は光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が嫁いだ細川忠興が庇護(ひご)した寺で、光秀との縁も深い。

 さて、肖像だが、画賛は海雲寺・本徳寺の本山である妙心寺の僧・蘭秀宗薫によるもので、「輝雲道●(=王へんに秀)禅定門」の戒名と、慶長18(1613)年6月6日の日付が記されている。また同寺には、「鳳岳院殿輝雲道●(=王へんに秀)大禅定門」という、「鳳岳院殿」と「大」が付け加えられた位牌(いはい)もあり、「貝塚から岸和田に移ってきたときに追贈されたのでは」と伝承されている。

 位牌はともかく、画賛に記された年月が光秀の30回忌に近いことや、戒名の中の「輝」と「●(=王へんに秀)」に「光」「秀」が含まれていることなどから、「肖像の主=光秀」と伝えられてきた。

百歳近くまで生きた?

 一方、肖像の画賛には大きな謎がある。「惜哉合保百年躬(惜しきかな、合保う百年の躬)」の一文である。同寺の住職は「あくまでも雑談」と断った上で、こんな話をしてくれた。

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