戦国時代、北奥羽(現在の東北北部)に広大な領土を有し、江戸時代には盛岡藩主となった有力大名、南部氏。16世紀前半まで本拠地としていた国史跡「聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡」(青森県南部町)では30年近く発掘作業が続いており、成果の一端が東京都江戸東京博物館(墨田区)で展示されている。中央との関係の深さをうかがわせる高級陶磁器、北の先住民族・アイヌゆかりの品…遺物の数々からは、「東北の雄」の知られざる勢威が見えてくる。(橋本昌宗)
当時の東北で最大級
聖寿寺館跡の発掘作業を行っている南部町教育委員会によると、南部氏は甲斐源氏の一族で、鎌倉時代の末頃までには奥羽に入り、その後「本三戸(もとさんのへ)城」とも呼ばれた聖寿寺館を拠点と定めたとみられる。文献によると、聖寿寺館は、戦国時代に現在の青森県や秋田県一帯を掌握して「三日月の丸くなるまで南部領」とうたわれた南部晴政の代だった天文8(1539)年、家臣の放火で焼失したとされる。南部氏はその後、居城を三戸(さんのへ)城(同県三戸町)、盛岡城(盛岡市)と移した。
中世の城館は、同じ場所に新たな城が建てられたり近代以降に宅地開発される場合が多いが、聖寿寺館の場合、跡地で大規模な都市開発などが行われなかったため、当時の貴重な遺構や遺物がそのまま残る形となった。
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