豊臣秀吉のレガシー 治安や治水 土木技術でも目指した天下統一

豊臣秀吉が造営した御土居の跡。築造時の土塁の姿をよく残している=京都市上京区の北野天満宮(永田直也撮影)
豊臣秀吉が造営した御土居の跡。築造時の土塁の姿をよく残している=京都市上京区の北野天満宮(永田直也撮影)

 戦国の世を制し、天下統一を果たした豊臣秀吉(1537-1598年)は、武将としての能力はさることながら、土木技術を駆使した戦術で、勝利を重ねてきたといわれる。関白となり、国内を統治した秀吉は、各地でスケールの大きな事業を展開した。大阪城や聚楽第(じゅらくだい)、伏見城といった巨大城郭の建設だけでなく、治水、水運のための堤防の構築、ハイウエーの整備…。京都、大阪で行った都市改造は、その後の大きな発展につなげた。秀吉のレガシーは関西各地に今も、色濃く残っている。 (編集委員 上坂徹)

城塞都市を構築

 全国を統一し、関白に叙任された秀吉は政治の中心を京都に置くことにし、天正14(1586)年、平安宮の大内裏跡に、政庁・居宅として「聚楽第」を建設、10万人余りを動員して翌年に完成させ、周辺には武家屋敷を配置した。中心部の整備が進む中、秀吉は同19(1591)年、京都の市街地を土塁と堀でぐるりと囲む、「御土居(おどい)」を造営する。

 江戸時代に、御土居の管理を幕府から委託されていた豪商・角倉家が作製した「御土居絵図」(1702年)には、御土居が詳細に描かれている。それによると、東寺=教王護国寺(京都市南区)を南端に、北は大徳寺(同市北区)北方の鷹峰、東は鴨川・賀茂川に沿ったラインで、西は紙屋川に至る範囲。その総延長は約22・5キロにも及んでいる。

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