川の流れまで変えた秀吉 「伏見を政治の中心に」

復元城の伏見桃山城。秀吉の伏見城天守閣を模したという=京都市伏見区
復元城の伏見桃山城。秀吉の伏見城天守閣を模したという=京都市伏見区

 桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川を形成するあたり、京都市伏見区や宇治市などにまたがる地域にかつて、巨大な池があった。巨椋池(おぐらいけ)。宇治川が注ぎ込み、周囲16キロという大池に、豊臣秀吉が巨大な堤(つつみ)(堤防)を築造したのは文禄3(1594)年のことだった。この太閤堤により、池から切り離されて、新たな流路を与えられた宇治川が、淀川に直接流れ込むようになったことで、秀吉が新たな拠点にしようとした伏見城(伏見区)が、水運・河港の拠点として発展することになった。  (編集委員 上坂徹)

12キロにも渡る大工事

 天下統一を果たして、関白に叙任された秀吉は天正19(1591)年、おいの秀次に関白の位と政庁・居館だった聚楽第(じゅらくだい)(京都市上京区)を譲り、隠居場所として巨椋池の北岸に近い指月(しげつ)(京都市伏見区)に伏見城を建設、文禄2(1593)年には入城している。その翌年に、宇治川、巨椋池の築堤工事を、大名らに命じている。

 具体的には、宇治川にかかる宇治橋の上流部から巨椋池北東部を通って、伏見まで(槇島堤)を前田利家に、伏見から巨椋池の中ほどを通って南岸まで(小倉堤)を織田信長の孫にあたる織田秀信に、伏見から桂川・淀川との合流付近まで(淀堤)の一部を徳川家康家臣の松平家忠に命じたことが記録に残されている。こうした堤は総称して太閤堤と呼ばれ、工事区間の総延長は約12キロにも及んだ、という。

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