治水・物流変えた秀吉ハイウエー 大坂の陣の舞台にも

淀川左岸の改修・整備でできた文禄堤の跡。東海道と奈良街道が分岐する道しるべが置かれていた=大阪府守口市(前川純一郎撮影)
淀川左岸の改修・整備でできた文禄堤の跡。東海道と奈良街道が分岐する道しるべが置かれていた=大阪府守口市(前川純一郎撮影)

 16世紀の大阪平野は、淀川など多くの河川が、東から、大阪湾に向けて流れ込んでいた。蛇行する河川は、豪雨のたびに洪水被害をもたらし、天下統一の拠点として、大阪平野を南北に貫く上町台地の北端に大阪城(大坂城)を築いた豊臣秀吉も、それに悩まされた。そして、治水対策として、淀川に長大な堤防を築く。「文禄堤」。多くの大名たちを動員して完成させた堤防には、もうひとつの目的があった。その上を大阪と京都を最短で結ぶ街道とすることだった。完成した、いわば「時代のハイウエー」は、物流や社会を大きく変革させたのである。 (編集委員 上坂徹)

3年で27キロの大規模工事

 「この辺(あた)り大水にて、八カ所堤切れ、正体なく候」

 文禄4(1595)年6月7日のことである。近畿一円を激しい豪雨が襲った。淀川水系から水が流れ込んでいた深野池(寝屋川市、門真市、東大阪市など)と新開池(大阪市、東大阪市、大東市=いずれも消滅)は堤防が決壊して、大洪水となり、大阪城近くまで水があふれた。聚楽第(じゅらくだい)(京都市)にいた、おいで関白の豊臣秀次から届いた見舞いに対する返書で、秀吉はこんなことを書き記している。

 この豪雨は各地に大きな被害を出し、京都の公卿(くぎょう)、山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」には「七日、戌申、雨、洪水、大雨」とある。京都-大阪間の道路も寸断され、事態を重視した秀吉は翌年、深野池・新開池と淀川水系を切り離すため、大名たちに淀川に堤を築くよう命じている。

 江戸時代の史書『当代記(とうだいき)』には、「河内国堤(淀川左岸堤防)、関東衆これを築く」とある。毛利家の安国寺恵瓊(えけい)らの書状では、「摂州(津)堤」(淀川右岸堤防)の町場(分担区域)1万5281間(約27キロ)のうち、4千間は毛利一門の吉川広家の担当であることを伝えている。左岸の「河内堤」は東国大名、右岸の「摂津堤」は西国大名が工事を担当したようだ。

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