今も現役 秀吉が造った国内最古の下水道

豊臣秀吉が行った大阪の街作りは、現代の商都・大阪の原型となった=大阪市中央区(本社ヘリから、彦野公太朗撮影)
豊臣秀吉が行った大阪の街作りは、現代の商都・大阪の原型となった=大阪市中央区(本社ヘリから、彦野公太朗撮影)

 天下統一を目指した豊臣秀吉が、その拠点として築いた大阪城(大坂城)=大阪市中央区。日本の中心と位置付け、城だけでなく、城下の都市開発も熱心に展開した。湿地帯を埋め立てたところに、碁盤目状の道路を通す。縦横に堀をめぐらせて、流通を活発化させた。巨大災害に見舞われて、一部方針変更を迫られはしたものの、各地の商工人を強制的に集住させて、経済活動の素地を整えている。秀吉の都市開発は江戸時代、「天下の台所」といわれて繁栄を誇った商業都市の土台となったのである。 (編集委員 上坂徹)

まずは町家の建設から

 主君の織田信長を討った明智光秀を、「山崎の戦い」(1582年)で破った秀吉は、天正11(1583)年4月、柴田勝家を「賤ケ岳の戦」で破り、天下統一への道を着々と進める。その1カ月後、大阪に入った秀吉は築城構想を練り上げて、同年9月、大阪平野を南北に貫く上町台地の北端、かつて石山本願寺とその地内町があったところで、本格的な築城工事に着手した。

 大阪城着工前、膨大な労働者が携わることに対応して、建設予定地周辺に武家屋敷や町家の建設を始め、築城工事開始までのわずか3カ月程度で完成させた、という。同時代の京都の公卿(くぎょう)で神職、吉田兼見は日記「兼見卿記」に、大阪城から、約4キロ離れた四天王寺(大阪市天王寺区)まで、2本の南北道路(上町筋・谷町筋)に挟まれて、民家がつながっていた、と記している。

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