歴史シアター

鳥取城渇殺 織田VS.毛利 幻の総大将決戦の地

鳥取城があった久松山(中央)と秀吉が拠点を置いた本陣山(右)
鳥取城があった久松山(中央)と秀吉が拠点を置いた本陣山(右)

 豊臣(羽柴)秀吉の三大城攻めのひとつとして知られる「鳥取城の渇(かつ)え殺し」は、毛利方の城兵と民衆合わせて約4千人を約100日にわたって山城に封じ込め、兵糧攻めにより食料がなくなって、餓死者を続出させる事態にまで至ったと伝わる。今も残る城攻めの遺構や織田信長の一代記「信長公記」をはじめとする文献から、鳥取城跡の復元整備を担当する鳥取市教委の文化財専門員、細田隆博氏に「鳥取城渇殺」を読み解いてもらった。

■かくれなき名山

 天正4(1576)年、信長に追放された室町幕府15代将軍、足利義昭が毛利氏の領国に下向すると、織田と毛利は全面戦争へ突入。翌年、信長は中国方面攻略の大将として秀吉を出陣させた。当時、中国地方の東端は、織田・毛利両勢力の主戦場。中でも、因幡国の本城「鳥取城」をめぐる戦いは、毛利の主力部隊が鳥取城の支援に動くなら、「信長自らが出陣し雌雄を決する」(信長公記)と予告した戦場であった。

 東播磨の三木城(兵庫県三木市)を陥落させた秀吉は、天正8(1580)年4月、鳥取城へ出陣した。戦が長引けば毛利方の援軍が予想される。このため、秀吉は当初、力攻めで一気に攻め落とす計画だった。しかし鳥取城は、信長が「名城」(信長公記)と称し、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」(石見=いわみ=吉川家文書)と評された山城(263メートル)。信長は力攻めの秀吉案を一蹴し、作戦の変更を直接指示した。このため秀吉は包囲戦へ作戦変更し、当時の城主、山名豊国は降伏した。

 ところが、秀吉が姫路城に帰陣し、毛利方が勢力を盛り返すと、鳥取城の重臣たちは山名豊国を追放。毛利方で山陰方面を担当していた吉川元春へ新しい城主の派遣を要請した。これを受けて、新城主に任じられたのが、石見国福光城(島根県大田市)の城主、吉川経家(きっかわ・つねいえ)だった。