光秀ゆかりの地に残る埋蔵金伝説

亀山城の内堀石垣跡に今も残る水路の入り口=京都府亀岡市
亀山城の内堀石垣跡に今も残る水路の入り口=京都府亀岡市

 主君・織田信長を自害に追い込んだ本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉らに山崎の戦いで敗れ憤死したとされる明智光秀が、実は莫大な軍用金を埋め隠していた-。埋蔵金伝説といえば、秀吉や徳川家康にまつわるものが有名だが、光秀にもいくつかある。幾多のトレジャーハンターを虜にしてきた埋蔵金伝説のあれこれを紹介する。  (古野英明)

軍用金は3つに分け

 京都市右京区京北周山町にある周山(しゅうざん)。かつてこの山には、信長から丹波平定を命じられた光秀が天正7(1579)年に築城したとされる城があり、地元には、この山のどこかに莫大な軍用金が埋められた-という言い伝えが残る。

 天正10(1582)年6月13日、安土城(滋賀県近江八幡市)の留守を預かっていた光秀の重臣で娘婿の明智秀満は、山崎の戦いで光秀が敗死したことを知り、急いで軍を明智氏の拠点だった坂本城(同県大津市)に移動。通説では、秀満は光秀の妻子を刺殺して坂本城に火を放ち、自らも切腹して果てたとされているが、地元郷土史研究家の山村安郎さん(92)は「京北には、軍用金を持って周山に逃れたと伝わっている」と話す。

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