
東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長を務めていた森喜朗元首相が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などと発言したために、「女性蔑視」「五輪の精神である多様性に反する」などと批判され、会長辞任に追い込まれた。

後任は前五輪担当相、橋本聖子氏に決まり、ひとまず混乱は収まりつつあるようだが、これをきっかけに女性差別の問題に改めて注目が集まるようになった。日本社会に根強く残る男性社会の閉鎖性、不寛容さが問題とされているといってもいいかもしれない。一方で、少数ではあるが、いかに社会の多数が非難するような発言でも一切、認めないのは不寛容ではないかという疑義も呈された。ある種、対極にある2つの意見に見えるが、ともに「寛容」の理念を前提にした議論であることがわかる。
わたしは神学、宗教学が専門で、専門外の時事問題を評論することはできないが、たまたま「不寛容論 アメリカが生んだ『共存』の哲学」(新潮選書)という本を上梓したばかりだったせいであろう。産経新聞の編集氏より「寛容という切り口からこの問題を考えてほしい」とご依頼をいただいたので、ここに感じたところを記しておきたい。