
第201回 GHQ(1)
神奈川県の厚木飛行場に着陸した、銀色の大型機から現れた男は、サングラスをかけ、コーンパイプをくわえていた。終戦から半月後の昭和20年8月30日-。厚木の空は、穏やかに晴れていた。
男は、ゆっくりとタラップを降り、出迎えの米軍将官と握手して言った。
「東京まで長い道のりだったよ。しかし、映画でよく言うように、これで一件落着だ」
男の名はダグラス・マッカーサー。これから日本の占領統治を担う、連合国軍最高司令官である。マッカーサーは、泰然自若と来日の第一歩を踏みしめた。
一方、随行する秘書官のホイットニーは気が気でなかった。軍事力が崩壊して降伏したドイツと異なり、本土の日本軍はまだ健在だ。一部でも決起すればマッカーサーの命はない。
だが、宿泊先のホテルに向かう車中で、ホイットニーは目を丸くする。沿道に日本兵がずらりと並び、車列を背にして立っていたからだ。「彼らは天皇を護衛するときと全く同じやり方で、最高司令官を護衛していた」と、ホイットニーは述懐する。
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終戦時、日本軍は国内に370万人、国外に360万人以上の兵力を有していた。米軍上層部の多くは日本軍の抗戦意思を依然として警戒していたが、マッカーサーは「日本が国家的にもっている、あの『武士道』と呼ばれる伝統的な騎士道の精神を知り、また信じていた」という(マッカーサー回想記)。
このマッカーサーの確信は、間違ってはいないものの、100%正解とも言えないだろう。8月15日まで徹底抗戦を叫んでいた日本軍が(ソ連軍と戦闘中の一部を除き)一夜にして銃を置いた背景には、昭和天皇をはじめ皇族が一丸となっての、懸命な慰撫工作があったからだ。
終戦2日後の8月17日、東久邇宮稔彦王が皇族で初めて首相となり、ラジオで繰り返し皇軍の自制を呼びかけた。同日、昭和天皇の指示で朝香宮鳩彦王、竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王が中国、満州、南方の各軍司令部へ飛び、終戦の聖旨を伝達。昭和天皇も自ら勅語を発し、皇軍の団結と有終の美を求めた。
政府と宮中は連携し、先手を打って武装解除を進めることで、占領軍による急激な日本改造を避けようとしたのである。
だが、そんな努力をあざ笑うかのように、占領軍は苛烈だった。実はこの時、日本政府の存在を無視して、軍政を敷く計画を立てていたのだ。
それを許すわけにはいかない。昭和天皇と国民の、新たな戦いがはじまった。