孤高の国母

(1)空襲にも動じず… 気丈な皇后、波乱万丈の生涯

貞明皇后(昭和6年撮影、宮内庁提供)
貞明皇后(昭和6年撮影、宮内庁提供)

 以下は明治、大正、昭和の三代を生き、戦後の皇室に多大な影響を及ぼした女性の、史実に基づく物語である。

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 昭和20年5月25日の夜、東京の上空が、真っ赤に染まった。同年3月10日の東京大空襲からおよそ1カ月半、米爆撃機B-29の大群が再び来襲したのだ。その数、およそ470機。灯火管制のしかれた都心に焼夷弾の雨が降り、皇居周辺の官庁街が次々と火炎に包まれた。

 その頃、赤坂御用地内にある大宮御所の御文庫(地下防空壕)で、防空服をまとった初老の女性が、小机の前に端座していた。

 女性は、地蔵尊像などが彫られた朱印を、紙に何度も何度も押していた。空襲でまた、何万人もの国民が犠牲になる。その一人一人に、深い祈りを捧げていたのだ。

 昭和天皇の母、貞明皇后(当時は皇太后)である。

 地上でズシン、ズシンと爆発音が響く。しかし皇太后は動じない。朱色の地蔵尊像がみるみる増えていった。

 空襲開始から1時間半後、御文庫からやや離れた大宮御所の本殿が炎上する。見回りに出て目撃した皇太后宮大夫の大谷正男によれば、「一団の焼夷弾が落下して忽(たちま)ちに火の海と化した」という。陸軍守衛隊と警視庁特別消防隊が消火に努めたが、火勢を抑えることはできなかった。

 大谷は愕然とし、御文庫へ走った。

 「大宮様、御所が焼け落ちました」

 皇太后は、悲痛な表情をみせたものの、一言も語らなかった。

 その日、侍医の山川一郎は業務日誌に書いた。

 「(皇太后の)御文庫着御は十時三十五分なり。忽ちにして敵機の来襲甚(はなはだ)しく、焼夷弾の投下雨の如(ごと)く、陸軍大学校舎を最初に次で青山御所、御局竹屋典侍宿舎、大宮御所の順序にて炎上す。最初は本省より刻々と通報ありしが通報も遂に絶え、戸外は爆風と周囲火災の火の粉の乱舞と爆発音と其の光景のすさまじさ誠に地獄絵巻物の如し。悲しくもこの日、米鬼の為大宮御所遂に炎上す」

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 空襲は翌26日午前1時まで続き、大宮御所、東宮仮御所、青山御殿が全焼。爆撃が厳禁されていた皇居にも火の粉が飛んで正殿が焼け落ちた(※1)。

 明くる朝-。

 皇太后は御文庫にいて、大正天皇の御影(肖像画)の前に端座している。身の回りの品のほとんどが焼けたが、この御影だけは事前に御文庫に運び込んでいたため無事だった。

 瞑目して手を合わせる皇太后。空襲の惨禍がついに皇居にまで及んだことを、どう伝えただろうか。

 祈りの後は大宮御所の焼け跡を見て回った。残っていたのは門だけで、謁見所も茶室も、すべて木炭と化していた。

 「きれいに焼けたもんだねえ」

 気丈に振舞って見せたものの、眉間に寄せたしわの深さに、胸奥の心痛がかすかににじんだ。

 以後、皇太后は太陽の届かない御文庫で過ごす。6畳ほどの狭い一室。不平は口にしなかった。

 「大宮様はお焼けになつてから、一度も御不足についてお漏しになつた事はありません。然(しか)し下の者の被害についてはよく御心遣ひをして下さいました」と、皇太后宮職の檀萬吉が述懐する。

 御所全焼の翌日、喜久子妃(高松宮妃)が見舞いに訪れたとき、皇太后は静かに言った。

 「これで私も国民と一緒になった」

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 貞明皇后-。聡明かつ気丈な国母だったと伝えられるが、その性格や言動などについて書かれた文献は意外に少ない。しかし平成28年の秋以降、産経新聞の申請で宮内庁が順次公開した100冊以上の「貞明皇后実録稿本」(実録の草稿と編集資料)などを読み解くと、聡明よりも愛情、気丈よりも苦悩に満ちた、新たな皇后像が浮かび上がってきた。