孤高の国母

(2)生後7日目で里子に… 知られざる皇后の生い立ち

 昭和天皇の母、貞明皇后の生い立ちは、一般には知られていない点が少なくない。宮内庁が昭和26~34年に編集した「貞明皇后実録」は、66年にわたる生涯を全52巻、計4286頁で詳述しているが、1~3歳時の本人の記録はなく、4~6歳時の様子も各1文で記すのみだ。記述が充実するのは皇太子妃に内定する15歳以降である。

 その実録の1巻1頁は、最初の1節をこう書く。

 《皇后、御名は節子(さだこ)、従一位大勲位公爵九条道孝の第四女にして、御母は九条幾子なり。(明治17年)六月二十五日午前十一時東京府神田区錦町一丁目十二番地の従一位九条道孝の邸に於て誕生あらせらる》(※1)

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 九条家は鎌倉時代初期の関白、九条兼実(かねざね)を祖とする五摂家の一つ。いわば名門中の名門である。

 明治維新の前まで、御所の席次は関白-准三宮(太皇太后、皇太后、皇后に准じた待遇)-太政大臣-左大臣-右大臣-親王-の順で、摂政・関白を独占する五摂家の権威は親王家よりも高かった(※2)。

 中でも九条家は気骨の人が少なくない。節子姫の祖父、尚忠(ひさただ)は幕末に関白を務め、公家社会の猛反対にもひるまず公武合体路線を推進。過激派の志士から命を狙われるほどだった。事実、家臣の島田左近は薩摩藩士らに暗殺され、首を京都の四条河原に晒(さら)されている。