孤高の国母

(6)生活環境が激変 野山育ちが華族の“お嬢様”学校に…

 幼少期の4年4カ月を過ごした武蔵野の農村を離れ、帝都の中心、赤坂の九条道孝邸で暮らすようになった節子姫(貞明皇后)だが、当時の様子を記す確かな文献はない。

 ただ、宮内庁が保管する貞明皇后実録の編集資料から、その一端をうかがうことができる。

 実録によれば、道孝は明治19年5月、本籍を東京府神田区錦町(現千代田区神田錦町)から赤坂区赤坂福吉町(現港区赤坂6丁目)に移した。明治天皇から下賜された皇宮地付属地で、敷地面積3400余坪の広大な屋敷である(※1)。

 九条家では当時、家臣を20人以上抱えていたほか、住み込みの女官も多数いた。節子姫の生母で、中川局(なかがわのつぼね)と呼ばれていた側室の野間幾子も同居しており、「家の中の事は全部この方(幾子)が切り廻してゐられました」と、元家臣の森津倫雄が述懐する。

 もっとも、節子姫らの身の回りの世話は女官がすべて行い、幾子は深く関わらなかったようだ。