義経が弁慶と出会った五条大路は六波羅とともに衰退

左京六条四坊の発掘現場。大路の道路側溝が道路を侵食していく様子がうかがえる(四門提供)
左京六条四坊の発掘現場。大路の道路側溝が道路を侵食していく様子がうかがえる(四門提供)

 牛若丸時代の源義経が弁慶と出会ったとされる五条大路(現松原通)。10~12世紀にかけて、平安京から延びるメインストリートである大路(道路)が狭くなる中、五条大路は14世紀に鎌倉幕府が滅びるまでほぼ造成当時の道幅を保っていたことが、発掘調査で明らかになった。五条大路は、朝廷などを監視する機関があった「六波羅」に通じる道で、当時の幕府が権力を誇示していたことを裏付ける重要な発見となりそうだ。(園田和洋)

大路側溝が出土

 五条大路は平安京内と清水寺を東西に結び、源氏物語の主人公のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の邸宅をはじめ高倉天皇、安徳天皇ゆかりの五条東洞院殿など、皇室の里内裏や高級貴族の邸宅などが並んでいたという。

 五条大路だった現在の松原通は幅約4メートルだが、平安京遷都当初(8世紀末)の道幅は16・8メートル。さらに、道の南北両側に幅1・8メートルの築地塀や幅1・2メートルの溝などがあったとされる。

 昨年11月から今年1月にかけて民間会社「四門」(本社・東京)が、ホテル建設のため、平安京左京六条四坊八町(烏丸通-河原町通間にある松原通の中間点付近)にあたる約185平方メートルを発掘調査。その結果、五条大路の南沿いに設けられた側溝跡が見つかった。

 一緒に出土した土器などから道路側溝は遷都当初と平安後期、鎌倉前期の3度にわたり、造り替えられていたことが判明した。