孤高の国母

(27)皇太子妃に浴びせられた叱声 試練の日々が始まった

 厳粛と熱狂が交差した結婚の礼が終わり、事実上の新婚旅行といえる伊勢神宮、神武天皇陵などへの行啓も済んで、明治33年6月、嘉仁皇太子(大正天皇)と節子妃(貞明皇后)は東京・青山の仮東宮御所に落ち着いた。

 赤坂離宮に隣接する仮東宮御所は青山御所と呼ばれ、もとは紀州藩の中屋敷だった。維新後、当主の徳川茂承(もちつぐ)が私邸(赤坂邸)を献納し、赤坂離宮と命名されて英照皇太后が住んでいたが、明治6年5月、旧江戸城の皇居が火災で焼失したため、明治天皇が避難して仮皇居となる。このとき茂承は即日参内し、自身の住居(青山邸)も献納。そこに英照皇太后が移居してつくられたのが青山御所だ(※1)。

 少女時代、節子妃は伯母の英照皇太后に招かれ、ここで何度か遊んだことがある。皇太子妃となった今、その姿を見せてあげられなかった伯母を思い、感慨にひたることもあったのではないか。

 御所の廊下から外をみると、手入れの行き届いた芝生に、初夏の太陽が降り注いでいる。節子姫は、誘われるように庭に出て、芝生の上を走りだした。

 そばにいた若い女官が「お待ち下さい」と追ったが、節子妃は止まらない。鬼ごっこのような形になり、笑いがあふれた。野山を駆け巡った里子時代、校庭を走り回った女学校時代が頭をよぎる…。

 その時だ。鋭い声が飛んだ。

 「そのお恰好(かっこう)は何ですか!」