孤高の国母

(35)明治天皇が反対? 取り残された皇太子妃

 明治33年9月、嘉仁皇太子(大正天皇)のいる日光田母沢御用邸に戻った節子妃(貞明皇后)は、豊かな自然の中で満ち足りた日を過ごす。

 6日《午後二時二十分皇太子と倶(とも)に御出門、夫(それ)より皇太子は御散策に赴かせられ、妃は日光御用邸に滞在中の昌子・房子両内親王(明治天皇の第6・第7皇女)を訪はせらる。御帰途同御用邸附近に於て再び皇太子と会せられ、御同列にて三時四十五分還啓したまふ》(貞明皇后実録1巻77頁)

 11日《午後一時三十分御出門、皇太子と倶に輪王寺に行啓あり。強飯の式(※1)を覧たまひ、従一位中山慶子(明治天皇の生母)をして陪覧せしめらる。(中略)是の日、皇太子と倶に従一位中山慶子を晩餐に陪せしめたまふ》(同巻77~78頁)

 だが、いつまでも“夏休み”を続けているわけにはいかない。

 翌12日、嘉仁皇太子と節子妃は日光での避暑を終え、東京の青山御所に戻った。以後、午前は漢学と仏語の修学、午後は週2日の音楽のほか、夕方に外庭などで1時間余りの運動という、いつもの日常が訪れる。

 節子妃はさえなかっただろう。その頃から、夫婦のすれ違いが本格化してしまうのだから-。

 原因は、嘉仁皇太子の健康にあった。