
明治33年12月10日《東宮拝診御用男爵橋本綱常・侍医局長岡玄卿等をして拝診せしめらる。乃(すなわ)ち綱常等御妊娠と診断し奉り、此の旨を上申す》(貞明皇后実録1巻89頁)
同年5月10日の結婚の礼からちょうど7カ月。夫の嘉仁皇太子(大正天皇)を深く愛しながら、すれ違いの日々に悩む中でもたらされた《御妊娠》の吉報に、節子妃(貞明皇后)はどんな気持ちだったか-。
12月15日、2カ月半にわたり不在だった嘉仁皇太子が帰邸し、いつにも増して笑い声の響く青山御所で、一般の帯祝いにあたる内御着帯が行われた。
帯を献上した帯親は、妻との間に4男1女をもうけた公爵の鷹司煕通(ひろみち)。帯をつける介添え役は嘉仁皇太子の生母、権典侍(ごんのてんじ)の柳原愛子である。