孤高の国母

(38)告げられた母子別離の運命 そしてお産が始まった

桜が満開の皇居(桜田門)
桜が満開の皇居(桜田門)

 嘉仁皇太子の指南役、有栖川宮威仁(たけひと)親王が宮中の重臣らを集め、東宮輔導顧問会議を開いたのは明治34年3月22日である。

 議題は、節子妃の出産予定日が1カ月後に迫ったのをひかえ、生まれてくる皇孫を誰に預けるかだ。

 天皇家の子女は、臣下の家で養育されるのが長年の慣行である。明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。もっとも中山家は明治天皇の生母、中山慶子の実家であり、臣下とはいえ血縁は濃い(※1)。

 この前例に従うなら、節子妃の実家、九条家が適役だろう。だが、明治天皇は軍人などの手で厳しく育てたかったようで、候補に上った形跡はない。当初は、内親王が誕生した場合は節子妃が自ら育てるべきだとする案もあったが、初の出産であり、東宮女官にも子育ての経験者がいないという理由で見送られた。