
明治34年5月5日《新誕の親王生後七日に当るを以て、命名の儀を行はせらる》(貞明皇后実録2巻12頁)
くしくも端午の節句と重なったこの日、明治天皇は親王に「裕仁(ひろひと)」の名と「迪宮(みちのみや)」の称号を与えた。
各地の奉祝行事もこの日がピークだ。
新聞各紙は号外を出し、国民は門前に国旗を掲げ、帝都の夜空は花火に彩られた。皇居の豊明殿では祝宴が開かれ、皇族、公爵、閣僚ら高位高官が続々と参内。「宮中に於て初の萬歳」が唱えられたと当時の新聞が報じている(※1)。
日本中が祝福の渦に包まれる中、節子妃は、床上げせず産室にいた。その胸に、待望の御子がしっかり抱かれている。
「裕仁」-
おそらく何度も、そうささやいてみただろう。裕仁の裕は易経の「益徳之裕也(益は徳の裕なり)」、迪宮の迪は書経の「恵迪吉従逆凶(迪(みち)に恵(したが)えば吉にして、逆に従えば凶なり)」などから採られた。
「よい名をつけていただきましたね」
御子はすやすや眠っている。