孤高の国母

(50)究極の政略結婚 元韓国皇太子に嫁いだ日本人妃の真実の愛

生まれたばかりの長男を抱く、1921年ごろの李方子さん(左)と夫の李垠殿下(韓国国立古宮博物館提供)
生まれたばかりの長男を抱く、1921年ごろの李方子さん(左)と夫の李垠殿下(韓国国立古宮博物館提供)

 明治41年5月18日《韓国皇太子英親王垠(ぎん)参殿せるにより、(節子妃は)皇太子並びに裕仁・雍仁(やすひと)・宣仁(のぶひと)三親王と倶に対面あらせらる》(貞明皇后実録9巻33頁)

 7月21日《韓国皇太子英親王垠、皇太子の午餐に召され参殿せるにより、御会食畢(おわ)れる後対面あらせられ、尋(つ)いで倶に撞球(ビリヤード)の御慰に興じたまふ…》(同巻42頁)

 同月28日《韓国皇太子英親王垠、同国皇帝より妃に御贈進の勲章捧呈の為、午前十時四十分参殿せるにより、皇太子と倶に御中殿に於いて御対面、勲章を受納あらせられ、直ちに御佩用(はいよう)の上御答詞あり…》(同巻44頁)

 前年12月に来日した李垠との、家族ぐるみの親交はしばしば繰り返された。明治41年中に節子妃が李垠と対面したのは、貞明皇后実録の記述だけでも6回に及ぶ。

 李垠は当時10歳。あどけなさを残す少年が、故国を離れて暮らす寂しさはどれほどだったか。嘉仁皇太子も節子妃もそれを察し、ことに嘉仁皇太子は兄弟のように接した。李垠と通訳を介さずに話そうと、自ら韓国語を学びはじめたほどだ(※1)。

 留学を主導した伊藤博文の思惑通り、李垠が日本の皇室と親交を深めて韓国に戻れば、その後の日韓関係は変わったかもしれない。

 だが、歴史は残酷だった。