孤高の国母

(51)名将・乃木希典も起用 昭和天皇の教育担当者たち

雍仁親王、宣仁親王、裕仁親王(左から)
雍仁親王、宣仁親王、裕仁親王(左から)

 明治41年、節子妃(貞明皇后)の子供たちは節目の春を迎えた。

 7歳になる裕仁親王(昭和天皇)が、学習院初等科に入学したのだ。

 それより前、青山御所と庭続きの皇孫仮御殿で暮らす裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)3親王の生活環境は一変していた。37年8月から養育責任者を兼務していた東宮侍従長の木戸孝正が、体調不良を理由に1年余りで担当を外れ、それを機に、養育体制が見直されたのである。

 新たに責任者(皇孫御養育掛長)となったのは、東宮侍従の丸尾錦作だ。

 丸尾は嘉仁皇太子(大正天皇)の少年時代、教育担当を務めた経験がある。その指導方法はいたって厳しく、保母の鈴木孝子によれば、「すこぶる硬骨を以て聞こえた人」だった。