孤高の国母

(55)皇太子が若い女官に…愛するがゆえの苦悩

陸軍元帥で元老の山県有朋と並んで座る嘉仁皇太子(中央)=明治43年、神奈川県小田原市(宮内庁所蔵)
陸軍元帥で元老の山県有朋と並んで座る嘉仁皇太子(中央)=明治43年、神奈川県小田原市(宮内庁所蔵)

 裕仁親王(昭和天皇)と雍仁親王(秩父宮)の保母だった鈴木孝子には、皇后になる前の節子妃(貞明皇后)の、忘れられない光景がある。

 節子妃が自ら果物の皮をむき、嘉仁皇太子(大正天皇)に渡しているのを、偶然目にしたのだ。それは青山御所の日常の、ほんのささいな一コマだったが、鈴木の胸に強い印象として残った。後年、宮内庁の聞き取り調査に、こう話している。

 「その頃天皇(嘉仁皇太子)は『節子、々々』と御呼びになつて非常に御いたはりのやうに覗ひましたが、皇后(節子妃)も亦(また)よくお仕えになつてゐました…」

 明治40年代の嘉仁皇太子が、利発な妻を深く愛し、頼りにしていたのは疑いない。ただ、鈴木は気付かなかったが、節子妃のほうは、夫を愛するがゆえの悩みを抱えていたようである。

 思ったことを何でも口にし、行動する嘉仁皇太子の性格が、なかなか改まらなかったからだ。