孤高の国母

(70)皇后の教育方針「国民の苦労が分からなければ…」

貞明皇后が産んだ4人の親王。左から裕仁親王、崇仁親王、宣仁親王、雍仁親王=大正10年9月、日光田母沢御用邸
貞明皇后が産んだ4人の親王。左から裕仁親王、崇仁親王、宣仁親王、雍仁親王=大正10年9月、日光田母沢御用邸

 大正4年11月28日、列島が万歳の大合唱に揺れた即位の大礼を終え、大正天皇が22日ぶりに皇居に戻ってきた。

 4日後の12月2日、《午後七時御産御催の兆あらせられ、七時三十五分御分娩、第四皇男子誕生あり》(貞明皇后実録16巻55頁)

 皇統をさらに盤石なものとした貞明皇后は当時31歳、大正天皇は36歳だ。

 親王誕生7日目の12月8日、大正天皇は崇仁の名と澄宮(すみのみや)の称号を与えた。のちの三笠宮である。

 ところで大正天皇の即位により、裕仁(昭和天皇)、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)3親王の生活および教育環境は大きく変わった。

 中でも皇太子となった裕仁親王は大正元年12月31日、兄弟一緒に暮らしていた皇孫仮御殿を離れ、東京・高輪の東宮仮御殿に移り住んだ。

 1歳下の雍仁親王が述懐する。

 「いつかは来るべきものではあったにしろ、その時が、いつであろうなどとは考えたこともなかったのだから、さびしさこの上もないものがあった。僕の方は(宣仁親王と)二人だからまだよいとして、一人ぼっちになる兄上は、言葉以上につらいものがあられたに相違ない」

 実際、弟思いの裕仁親王にとって、この別離は辛かっただろう。