聖徳太子没後1400年 第1部(2)

神々より外来の仏教に重き 十七条憲法ににじむ真意

「聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影)。奈良国立博物館で開催される特別展「聖徳太子と法隆寺」で5月18日~6月20日に展示される
「聖徳太子二王子像」模本、明治30年、和田貫水筆(奈良国立博物館蔵、同館提供、森村欣司撮影)。奈良国立博物館で開催される特別展「聖徳太子と法隆寺」で5月18日~6月20日に展示される

 〈和を以(もっ)て貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ〉

 聖徳太子といえば、教科書でも習う十七条憲法のこの第一条を思い浮かべる人が多いだろう。「憲法」といっても、現代とは異なり、役人らの心得などが書かれ「礼を大事にせよ」「早く出仕し遅く退出せよ」といった具合だ。

 後世には、板木に彫られるなどして流布。現在でも会社など組織の理念に生かされることもあり、太子創建とされる法隆寺(奈良県斑鳩町)の古谷正覚(ふるやしょうかく)住職は「『和』が基本。その心でもってお互いを認め、敬い合うことが大切」と語る。

「聖徳太子の十七条憲法」疑う学説も

 日本書紀によると、十七条憲法は推古12(604)年、太子が自ら作り発表した。十七条まですべて書紀に記されているが、実は古くから、太子が作ったことを疑う学説がある。