大阪・北浜の料亭「花外楼(かがいろう)」では明治8(1875)年、日本の立憲国家の礎となった「大阪会議」が開かれた。その後も、政財界の要人がしげく足を運び、やがて、その敷居をまたぐことがステータスになるほどの料亭として知られていく。きっかけをつくった人物のひとりに、明治、大正の政財界で絶大な影響力をふるった長州藩(山口県)出身の政治家、井上馨(かおる)がいた。
女将にこぼす
「建物の建て替えや周年行事など特別なときにしか出していないものです」そう言って、花外楼5代目女将(おかみ)の徳光正子さんが井上の書を軸装したものを床の間にかけてくれた。置かれた生け花とともに眺めていると、あるべき場所で鑑賞しているという感じがして非常におさまりがいい。
「未受公候位蒼々傲雪霜何彊万年寿帯見復凋光 世外」(『花のそと』より)
未だ公侯の位を受けず、長い間過ごしている。世間からはおだてられもするが、色あせた光を見ているだけだ―。といったような意味だろうか。
井上は初代外務大臣として鹿鳴館に象徴される欧化政策を進めたことで知られる。大阪会議でも伊藤博文とともに大久保利通や木戸孝允(きどたかよし)、板垣退助との間を奔走した。しかし、同じ長州出身の伊藤や山県有朋(やまがたありとも)が就いた首相の地位には、ついにたどりつけなかった。
「三井財閥など財界との関係が深く、汚職事件に関与して下野した経緯などもあり、常に政府中枢にいた伊藤や山県より出世が遅れた。2人より年長だった井上にとっては悔しい思いもあったかもしれません」。大阪商業大教授の明尾(あけお)圭造さんは指摘する。