考・皇統

(下) 天皇の弁護人、葦津珍彦の思想に従えば…皇統に属する男系男子を皇族に

 政府の有識者会議で議論が始まった安定的な皇位継承問題について、思想や法律の専門家に見解を求める企画。今回は「天皇の弁護人」を自任した思想家、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の門弟の1人で、憲法・皇室法研究家の田尾憲男氏に、葦津の立論に基づく安定的な皇位継承について聞いた。(中村雅和)

葦津家が社家を務めた筥崎宮=福岡市東区(中村雅和撮影)
葦津家が社家を務めた筥崎宮=福岡市東区(中村雅和撮影)

精神復興に多大な役割

 葦津珍彦は明治42年、福岡で生まれた。葦津家は筥崎宮(はこざきぐう)宮司を務めた社家の1つで、一族には熱心な神道信仰者が連なる。父、耕次郎も神職として奉仕していたが、後に実業界に転じ、玄洋社総帥、頭山満と親交を結び、在野で活動した。西郷隆盛を敬仰した頭山の薫陶を受けた葦津も、西郷を「永遠の精神的情熱の源泉」と位置付け、生涯の師と仰いだ。

 戦後日本の精神復興に果たした葦津の役割は、特筆すべきものがある。

 敗戦直後の占領下で、「神道の社会的防衛者」を自任した葦津は、連合国軍総司令部(GHQ)による厳しい抑圧と破壊から神道と神社を守るため、早くから当時の神社界の指導者らに対策と団結を訴えた。これが、後の神社本庁設立につながり、自らは本庁の機関紙を発行する「神社新報社」を設立し、主幹となった。論争を「文による実戦」と確信する葦津は、実証的な歴史に裏付けられた客観的な分析と、鋭い論理で論陣を張った。

 神社新報を拠点に、GHQやその「御用文化人」と化した勢力、そして日本政府などを相手に、果敢に戦闘的言論活動を展開した。葦津の論に触れ、自信と誇りを取り戻した者は多く、とりわけ右派、民族派の活動家を魅了し、最も信頼すべき精神的主柱となった。

 左派陣営でも葦津の存在感は大きかった。昭和37年、雑誌『思想の科学』が天皇制特集号を企画。批判論一色の中、葦津は唯一の積極的支持者として寄稿を求められた。同誌刊行元だった「思想の科学研究会」のメンバーと交流し、真摯な議論を重ね、左派知識人にも天皇の存在意義を認識させ、再考させる機会となった。研究会の中心人物で、戦後左派の代表的知識人だった鶴見俊輔は晩年、葦津を「日本民族を深く愛した人」だったと、畏敬の念をもって回想している。