昭和天皇の87年

雪の日の惨劇 銃剣の前に身を投げ出したのは、重臣の妻たちだった

画=筑紫 直弘
画=筑紫 直弘

第117回 二・二六事件(1)

 その日、昭和11年2月26日、帝都に積もった雪は、無数の軍靴に踏み砕かれた。

 二・二六事件-。昭和維新断行を求める陸軍の青年将校らが、彼らのいう「君側の奸」を誅殺するため、決起したのだ。

 夜明け前、20人余の青年将校に率いられた歩兵第1連隊第11中隊、機関銃隊、歩兵第3連隊第1、第3、第6、第7、第10中隊、近衛歩兵第3連隊第7中隊の下士官兵1400人余が、雪明かりの中を整然と行進する。各隊はそれぞれの目的地に分かれ、午前5時を期して一斉に行動を開始した(※1)。

× × ×

 首相官邸を包囲したのは、栗原安秀中尉が指揮する歩兵第1連隊の291人だ。完全武装の下士官兵は通用門、非常門、裏門の3方から敷地内に侵入。警備の巡査詰所を制圧すると、一部が官邸の日本間入り口を破壊して中に入り込んだ。

 一方、異変に気付いた首相私設秘書、松尾伝蔵の行動も素早かった。陸軍予備役大佐でもある松尾は官邸内を走り回って各部屋の電灯を消し、首相の岡田啓介を浴場にかくまった。官邸内にいた護衛の警官4人も拳銃を抜き、応戦態勢をとった。

 暗闇の中を、侵入した兵士が手探りで進んでくる。警官が発砲し、兵士は機関銃を乱射。激しい銃撃戦となり、大広間のシャンデリアが砕け散った。

 だが、多勢に無勢だ。警官は1人倒れ、また1人倒れる。浴場にひそむ岡田も、間もなく発見されてしまうだろう。

 松尾は、岡田と風貌がよく似ている。兵士の足音が近づく中で、自身の使命と運命とを、悟ったのかもしれない。松尾は浴場をはなれ、中庭に出た。

 「誰かいるぞ!」。兵士が叫ぶ。

 「撃て!」と将校の声。未明の雪空に銃声が散った。

 襲撃の指揮をとる栗原は、松尾の遺体を寝室に運ばせ、官邸内にあった岡田の写真と見比べて言った。

 「首相だ。間違いない」

 集まってきた兵士らも、口々に「これだ、これだ」と歓声を上げる。その声は、浴場に隠れていた岡田の耳にも届いた(※2)。

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