昭和天皇の87年

究極の選択、 首相は東条英機に! 日米交渉継続の勅命が下った

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

第171回 白紙還元の御諚(1)

 悲劇の貴公子ともポピュリストともいわれた首相、近衛文麿の功罪について、戦後の評価は地を這うほどに低い。昭和12年6月~14年1月の第1次近衛内閣で日中戦争が勃発、泥沼化し、15年7月~16年7月の第2次近衛内閣では日独伊三国同盟を締結して日米関係を悪化させたのだから、「功」より「罪」のほうが圧倒的に大きいのは確かだ。

 しかしその後、外相の松岡洋右を排除して組閣した第3次近衛内閣でみせた、日米和解に向けた粘りは本物だった(※1)。悲壮な覚悟で提案した日米首脳会談の開催をアメリカに拒絶され、わずか3カ月で退陣を余儀なくされたが、その時ですら近衛は、日米和解の道がまだ残されていると信じていた。

 問題はひとつ、後継首相を誰にするかだ。

 近衛に知恵をつけたのは、意外にも陸相の東条英機である。昭和16年10月14日、総辞職する2日前の夜、東条の意を受けた企画院総裁の鈴木貞一が東京・荻窪の近衛の居宅を訪れ、こう言った。

 「後継内閣の首班には、宮様に出ていただくほかないと思います。東久邇宮(ひがしくにのみや)殿下が適任でしょう」