昭和天皇の87年

突きつけられた「ハルノート」 日本は立ち上がるしかなかった

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

第173回 開戦前夜(1)

 昭和天皇の意をくみ、日米交渉を一歩でも、いや半歩でも進めようと奔走した駐米大使の野村吉三郎-。だが、その結末はあまりに無残だった。

 昭和16年10月18日に発足した東条英機内閣が日米交渉の土台として、中国や仏印からの撤兵問題で日本が譲歩する「甲案」と、中国問題を棚上げして暫定的に妥協する「乙案」をまとめたことは前回書いた。外務省の訓令を受けた野村は11月7日、ハルと会談して甲案を提示。「日本の内政上許す限りの最大の譲歩」と理解を求めたが、ハルは一般的な平和原則を述べるにとどめた。

 同月12日、ハルは野村に、甲案には何も触れず、平和政策実行の誓約などを求める2通の文書を手交。15日には、列国共同で中国の経済開発を行うなどとする、日本の政策と相容れない新提案を持ち出した上、日独伊三国同盟の死文化を再三強調した。