昭和天皇の87年

号泣した東条英機 宿命の真珠湾へ、日本軍機が飛び立った

画=筑紫直弘
画=筑紫直弘

第174回 開戦前夜(2)

 歴代内閣の和平努力にもかかわらず、日米開戦は避けられなかった。東条英機内閣が発足する1年前、1940年秋の米大統領選で「自国の青少年を外国の戦争には送らない」と公約し、3選したルーズベルトは、いつの時点で戦争を決意したのか-。

 諸説あるが、1941年夏の独ソ開戦が大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろう。それより前、日独伊ソの4国が連携を強めることはアメリカにとって脅威だった。しかし、独ソ開戦でその脅威は解消した。日本に譲歩する必要はなくなったのだ。7月の閣議でルーズベルトは、石油の禁輸は「戦争を意味する」と自ら述べながら、8月に日本が南部仏印に進駐すると、米海軍作戦部長の反対を押し切って石油の全面禁輸に踏み切った。

 当時、アメリカは日本政府の暗号電報を解読していた。「マジック」の名で知られる、極秘の傍受情報だ(※1)。8月上旬の米英首脳会談で、ルーズベルトがチャーチルに「三カ月間ぐらい彼ら(日本)をあやしておける」と話したことはすでに書いたが、アメリカは日本の手の内を読みながら、自国の戦争準備が整うまで日本を「あやして」おけたのである。