
■第176回 真珠湾攻撃(2)
ハワイの米太平洋艦隊が奇襲を受け、壊滅的打撃を受けたとの急報がワシントンの米海軍省に入ったのは、1941(昭和16)年12月7日午後1時50分(日本時間8日午前3時50分)。作戦部長らと会談中だった海軍長官、ノックスは絶句した。
「そんなバカなことがあるはずがない。これはフィリピンを意味してるにちがいない」
日米交渉の終盤、アメリカが日本に「最初の一弾」を撃たせようと画策していたことはすでに書いた。しかし、まさかハワイで、これほどの巨弾になろうとは、誰も予想していなかったのだ(※1)。
ホワイトハウスの様子はどうか-。
大統領のルーズベルトは側近の一人に、趣味で収集した自慢の切手アルバムを見せていたところだった。だが、ノックスから電話連絡を受けて「NO!」と叫び、黙り込んでしまった。
やがて顔を上げたルーズベルトは、意外にもさばさばした表情になり、こうつぶやいたという。
「自分に代って日本が決定を下した…」
すでに戦争を決意していたルーズベルトは当時、日本やドイツと戦うことについて、どうやって国民を説得するか頭を痛めていた。前年の大統領選で、「自国の青少年を外国の戦争には送らない」と公約していたからだ。もしも日本がシンガポールを攻撃した程度なら、世論は参戦を認めなかっただろう。しかし、ハワイなら違う。
日本側の最後通告(宣戦布告)の手交が遅れたことも、ルーズベルトに幸いした。日本政府は真珠湾攻撃の開始30分前に手交できるよう、前夜から通告文を駐米大使館に打電していたが、駐米大使館の不手際で手交が攻撃開始後にずれ込んでしまったのだ。アメリカ側はそれを奇貨とし、「卑怯なだまし討ち」と喧伝(けんでん)して世論喚起に利用する(※2)。以後、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンが、アメリカ中を駆け巡った。