大飢饉の最中に餓死しても麦の種を後世に残した農民の大義

義農公園に建立された義農作兵衛の像=3月17日、愛媛県松前町
義農公園に建立された義農作兵衛の像=3月17日、愛媛県松前町

 「農は国の本(もと)、種子は農の本、自分の命より尊い」。こんな言葉を残して飢饉(ききん)に倒れた農民が江戸時代の愛媛県松前(まさき)町(当時の筒井村)にいた。義農作兵衛という。江戸の三大飢饉の一つともいわれる「享保の大飢饉」(1732年)に見舞われた際、周囲は手元の麦の種を食べるよう勧めたが翌年以降の村のことを考えて口にせず、餓死。だが翌年、残された麦の種を植えると作兵衛の願い通り豊作になったという。町は新年度から、作兵衛を郷土の偉人として顕彰する取り組みを始める。

「野に青草一本もなし」

 同町などによると、作兵衛は元禄元(1688)年、筒井村に生まれた。貧しい暮らしながら勤勉な性格で幼いころから農業に励んだ。23歳のころに妻を迎え、昼は農業、夜は縄をない、わらじを作るなどしていた。翌年ごろに母を亡くしたが、母の好物のあめを買うことができないまま野辺送りにしたことをずっと心残りにしていたと伝わる。1男、1女に恵まれ、自作の農地3反3畝(約33アール)、地主から借りた小作地1反5畝(約15アール)を耕作する模範的な農民となっていた。

 そんな中の享保17(1732)年、大飢饉が西日本を襲った。後にいわれる享保の大飢饉だ。3カ月以上長雨が続き、イネの害虫「ウンカ」が異常発生した。特に松前地区の被害は「野に青草一本もなし」といわれるほど甚大で、餓死者が800人に及んだという。